2012年3月24日土曜日

中本治義さん【前編】 | WEBマガジン 一貫人 - Ikkanzin -


スタジオ ビターズ紹介

開国150周年を迎えた横浜。 古くから多くの外国文化が流れ込み、 また戦後には多くの警察・その他勢力が東京復興のため東京へ流出していった。
この真空地帯の中、縦横無尽に人生を謳歌する若者達は"愚連隊"と呼ばれ 大きな影響力を持つ多くのリーダーを生み出す事となり、 その独自のカルチャーが醸成されていくのだ。
これら地理的・歴史的背景が、今で言う"横浜らしさ"の根底を作り上げているのだろう。

今、この横浜の不良達の間で最も熱いスポットといえば「スタジオ ビターズ」
ライブ、CM、映画、ドラマ、プロモーションビデオ制作等に携わるあらゆるクリエイターが注目する場所だ。
金属色を放つアンティークコレクションと、海に囲まれた「やんちゃ要塞」には毎日のように各界の著名人が集い、 あるものはDJブースに立ち、あるものはバーベキューを、 ベイブリッジを眺めながらの太公望までも共存する、まさに夢の国である。
ビターズはそこに集まる者がずっと昔から心のどこかで知っていた、待っていた、憧れていた空間なのだろう。

スタジオ ビターズ WEBサイト

今回はこのスタジオビターズのオーナー、中本治義さんを紹介します。

[ 聞き手 M:森大佑(シンクメディア) / T:次山嘉一(ネクスティー)]

「 これ良いでしょ 」

M:本当に色々なコレクションがあるのですね?

N:このエンジン良いでしょ。別にラジコン好きなわけじゃないんだけど、この形と輝き方が良いんですよね~。

M:分かります。僕も金属大好きなんです。これなんか金属の入り組んでいるところとか光り方が良いですよね。

N:そうなんですよ!!分かる?でね、奥に真鋳のホースのノズルがありますよね?良いでしょ。

T:あっ、はい。。良いですね。

N:ホースノズルコレクターだから。俺。

M・T:爆笑

N:こっちの照明は、みんなに"仏具みたいだ"とか批判されたりして(笑)
ストーブも普通じゃかっこ悪いから、塗装を剥離し鉄板の色にしちゃったんです。 機能に差し支えなかったら何でも自分好みにしちゃうんですよ。

N:そういうのが大事なんですよ。自己満足が大切なんですよ。
あの蛍光灯も知り合いが要らないっていうからもらってきてさ。 あのガラスのオブジェもカッコイイでしょ。ほら、あのイタリアのエスプレッソマシーン見てください。 使ったこと無いんだけど形が良いですよね~。
このエジソン式のトースターも良いでしょ。あ、この椅子良いでしょ。
ん~、この望遠鏡はイマイチだな。何がイマイチか分かりますか?この真鋳の質が良くないんですよ。
これなんか、この辺りのバランスが良いでしょ。この扇風機なんて究極ですよ。 イタリアのマリリーっていう扇風機ですが、何が良いって首振りの仕組みがカッコイイ。 こんな構造無いですよ。これがヤバイ。 (延々と続く)

M・T:お~!カッコイイ~!粋ですね。


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N:欲しがっていたからあげたんですよ。本当に大事にしていた扇風機を! すると「おお~そっか~!ありがとう!」って凄い喜んでくれたんです。 その時はその笑顔が見たいが為に金より男気を見せたんでしょうね。
ところがその数ヶ月後、その社長の経営するアンティーク店に行ったら、 なんと自分がプレゼントした扇風機に値札が付いていたんです…。 それでその人のことが分かりましたね。自分には見る目が無いなぁとも思いましたし、 良い勉強になったので後悔はしていませんよ。
本当はその頃、お金が無くて苦しい時だったし、言い値で買ってくれるのを断ってまでプレゼントしたのに…。 あれはショックだったな。

あ、冷えていないジンジャーエール飲む?(笑)

T:はい(笑)ジンジャーエールいただきます。それにしても、ここに入り浸ったら普段の生活には戻れなくなりますね。

M:ですね。戻れないですね。ホント独特の空気がありますよね。こんな空間他に無いですよ。

- メタルアーティストの頭の中 -

T:でも我々はやはり"アーティスト"として見ています。このスタジオがまさに物語っているじゃないですか。中本さんは職業は何屋さん?って聞かれたら普段何て答えるんですか?

N:面倒くさいから内装屋って言う時もあります。(笑)
アーティストって言うとアーティストに悪いなって気持ちがあるんですよ。自分は何の勉強もしていないし、 溶接だって全く見様見真似で免許があるわけじゃない、デザインだって勉強したことないし。
でもね、自分は"アタマの中に浮かぶ作りたいもの"なら作ることができるって思うんですよ。 ビターズも最初に来た時は柱だけで壁も無かったんだよ。
でも初めて見た時に"ココだ!"って思って、図面も何も無いけど頭の中で完成図がイメージできたんです。 ここに三角形の厨房作って、その上を居住スペースにして、こっちに窓を作りベイブリッジの夜景、 こっちには大きなスクリーンで映画を観るという風に。

M:ビターズは正に幼い頃に思い描いていた、憧れていた場所という印象です。

N:みんなそういう憧れみたいなもの持っているんですよ。そういうものをたまたま実現できたのでしょうね。

- プロ野球選手とシャワーの関係 -

T:昔から好きなことばかりやってきたのですか?

N:以前は自分も工務店で独立し、バブル期は建築の仕事で年間の売り上げが三億くらいと頑張っていたんですよ。 でも、経営は向いてなかった。横浜大洋ホエールズT.Y.選手の家の施工をしていた時、 バブルの頃って職人が足りないし、職人の人件費も上がって、工期がどうしても遅れてしまうんです。 T.Y.選手の家が八千万円でしたが、工期が一ヶ月半遅れて違約金を六百万よこせって言うんです。
当時T.Y.選手は現役で、既に大手建築会社で決まっている契約をかなり安く見積もりだして取ったわけだから、 あまり儲からない上に違約金が発生し大きな赤字になってしまって。

その頃から他の案件まで歯車が狂ってきてしまい、おかしくなってきちゃってね。 どうにか全部の工事を最後まで終わらせて、 最終的には、自分は経営者には向いていないなと思いました。
仕事が軌道に乗っている時は、 外車を乗り回して、発売されたばかりの携帯電話を持って現場周りをして、 環状七号線走りながら「会社経営なんてどうってことないなぁ」って思ってたけど本当に馬鹿でしたね。
そこから1~2年後、借金を作る前に会社を畳んで、 と同時に女房に見放され離婚。何も無くなってしまったんです。


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「 俺、ゼッタイ負けないぞ 」

自宅からは自分が出て行くことになったので、仕方なく当時の事務所に寝泊りして、 水のシャワーを浴びるしかありませんでした。本当に寒い時期だったなぁ。
その時に、凄く冷たい水を浴びながら「俺、ゼッタイ負けないぞ」って一人気合を入れてました。 人生で最低の時だから、この事は忘れないようにしよう。 これから何年か後にこの辛い気持ちを思い出すだろうから、 よく実感しておこうって思いながら。

- 出逢い。そしてコツコツ生活 -

M:事業の撤退と離婚。その後、どうやって立ち直ったのでしょう?

N:仕事も無く途方に暮れていたところ ある友人が「T電力の下請けの仕事をやらないか」と声をかけてくれたんです。 朝五時に起きて当時住んでいた世田谷から上野の会社まで通って、 ブレーカー交換やメーターを読む作業をするのですが、 その仕事はやればやっただけお金がもらえたので、約二年間はとにかくその仕事に集中して頑張りました。

T:やはり持つものは友人ですね。中々そのように紹介してもらえるものじゃないですよ。

N:肉体的にも限界が近づいていて、いつまでこの仕事を続ければ良いのだろうと考え始めていた頃、 アンティーク屋を営んでいる友人がロンドンへ買付けに行くというので同行してみることにしたんです。 これが一つの出逢いでした。
それまではアンティークに興味なんて無かったのですが、小物の買付けを間近で見ているうちに 「これは面白いなぁ。これを仕事にするしかないなぁ」って強く思ったんですよ。 帰国後に熟考した結果、やっぱりアンティークをやろうと決意し、 まだ買い付けてもいないのに、後に引かない為に 本で調べてすぐに骨董市の出店予約をしたんです。

T:ついにアンティーク界デビューですね!

N:いや、その時はまだモノを仕入れる為のお金が無かった・・。 お金を貯めるために色々考えた結果、まず実行したのが節約です。 普段使っている首都高を下道に変えて、昼食も節制して、一日1200円浮かして(笑) あんなに頑張ったのは生まれて初めてでしたよ。

どれだけ掛かったかなぁ。必死の思いで作った100万円のうち、 50万円を買付けに50万を旅費に充て、英語も喋れないのに一人ロンドンへ行きました。

M:これで本当にアンティーク界デビューですね!

N:"一人で持ち帰れる大きさ"、"男性の好きなモノ" このキーワードを基に、腕時計、ライター、カメラの三つに絞り買付けをしました。 自分で言うのもなんですが、その目の付け所が良かったんだろうね。 帰国後、予約していた骨董市に出店してみると、これがまた売れたんですよ。 生活費も捻出できるほど売れて、すぐ次の買付け資金が出来て。
結局、その年はロンドンへ6回行くことになり、 帰国しては小物を磨き、週末は骨董市へ出店という生活を繰り返しました。 華々しいアンティーク界デビューを飾ったわけですが、今思うとそのやる気が大事ですよね。

T:ロンドンでの買い付け資金を一日1200円浮かして作るなんて、情熱が無いと出来ないです。

N:今までは楽な方へ楽な方へ流れていっていたけど、 高速道路やめてお金貯めたり、英語も喋れないから勉強したり。 あの一生懸命さっていうのはあの時だけですね。 あの頃の俺は偉かったなぁ…。

- 充電期間? -

M:がむしゃらに行動した結果、骨董市では成功し、遂に復活したんですね!


ここで、パエリアは特殊になりましたか?

N:それがまだ復活じゃない。その後、関係者の口車に乗って、 アンティーク屋やレストランバーを開業したのがいけなかった。
素人なのにホールの女の子や厨房のコックを雇って、自分がカウンターで作れもしないお酒を作ったり、 レストランだから毎日食材は買わなくちゃいけないし、地獄のような日々を過ごし半年で閉店しました。 その後はダラダラして歯車が狂い、それまでの勢いが無くなった時期でしたよ。

M:一日1200円の節約から、アンティーク屋、レストランバーのオーナーなんて凄いストーリーですけどね。

N:新たな失敗を経験した後、以前からお世話になっていた、古物をやっている大社長が 「うちの会社で仕事をしないか。長野にミュージアムを建てるから手伝ってくれ。長野に行ってくれないか」 って声を掛けてくれたんです。

T:今回もまた人との繋がりが際立ちますね。でも長野は遠いですよね。

N:意を決して長野に引っ越し、住環境を整え、いざプロジェクトがスタート! と思った矢先、「やっぱりミュージアムは止めましょう」といきなりその話が無くなっちゃったんです。
残念ながらプロジェクトは無くなってしまいましたが、 その会社の買付けやメンテナンスの仕事を任せてくれたので、 そのまま長野で暮らし、週末は東京に骨董品を持って帰ってきて会議をするという生活になったのです。 長野生活も二年ほど経った頃、「もう勘弁してください」って言って戻ってきましたが 今思えば好きなことができた凄い良い時間でしたよ。

- ビターズ誕生 -

T:ビターズを作ったキッカケは?

N:長野から戻ってきた当時、広いガレージに複数の人が小さなブースを構える あるモールに自分のアンティーク商品を出展していました。
でもどうせなら自分で倉庫を持ちたいなと思って探し始めたところ、ココを紹介されたんです。 既にコレクションも沢山あったので、倉庫にする場所や遊び場として、 また自分の作業をするためのアトリエとして使っていました。
ところが手を加えるにつれにどんどんカッコよくなるので ここに住んだほうが良いなと思って、トイレ、シャワー、部屋を作って住んじゃったんです。 こんな所に住んじゃって平気かなって、最初はちょっと恥ずかしかったので 道行く人達の視線から隠れるようにして出かけてましたけど(笑)

当初、それほど人は来ませんでしたが、雑誌の取材が来るようになって、 イベントやライブの予定が入るようになって、ある時期から一気に広がったんです。
自分で言うのも変ですが、こんなカッコいい場所を作ったのだから もっと色々な人に観て欲しいと感じていましたし。

そう。先ほど自分はアーティストじゃないと言いましたが、 "アーティストじゃない"って言うのも逆に変な気が・・ちょっと臭いよなぁと最近は感じてるんですよね(照)

M:ここまで作り上げるのにどの位の時間がかかったのですか?


N:一人で三ヶ月位でしょうか。誰にも手伝ってもらっていません。どの職人も入れてないんですよ。 何から何まで全部自分で作りました。
実家が工務店だったこともあり、今まで色々な下請けの業種を見てきました。 習ったわけじゃないですが、監督しながら自分も手を出してきたタイプなので ブロック積むにも、溶接するにも、大工工事にしても上手い下手は別として 取りあえずどんなことでも人に出来ることなら自分にも出来るんじゃないかなって思えるんですよ。 だから凄い大変だったけど基礎から全部一人で作ったのです。

でも借りて二年目に家賃を5ヶ月滞納したことがあってね、 そうしたらある日、倉庫の持ち主が役員を大勢連れてやってきて 「月曜日に払えなかったら出て行ってもらうから」って言うんです。 いやぁその時はこんなに一生懸命作ったのに冷たいなぁと思いましたね。

T:(爆笑)つまり中本さんはビターズを造っている最中に 「払うから待ってろよ」と待たせていたわけですよね。払わずに造り続けている。普通じゃないですね。

N:どうしようかと考えた結果、仕方ないから月利6%で借りてきて滞納していた家賃を支払ったんです。その後金利だけでだいぶ払ったけど(笑)

- 人生は楽じゃないこともある -

T:色々な経験をされていると思いますが人生において最大の試練は?

N:個人としては、精神的にも経済的にも離婚した時が一番辛かったですね。 ホームレスという文字が頭の中を過ぎりましたよ。
親父が会社を潰した時も債権者会議をやったり大変だったけど。 手形が街金に回って不渡り出して、あの頃は本当にナニワ金融道の世界ですよ。
二回目の不渡り出した時は取立てが一気にやってくるんですから。 「息子の所に取立てに来るから"返します"なんて言っちゃ絶対にダメだよ」と弁護士に言われ とにかく「スイマセン、スイマセン」って謝ってました。
元々12所帯のアパートと土地、自宅を持っていたんだけど順番に無くなっていくんだよ。 最後自宅だけになってそれでも凄い苦しいの。手形の期日の前の日になると渋谷の裏の方の金貸しに行って… このまま行ったらどうなっちゃうんだろうって思って怖かったですね。

若い頃はうちはアパートもあるし困ることは無いと思っていたけど 最後に自宅も売って、それでも大して残らないんだもん。全くナニワ金融道の世界でうちの謄本なんて凄かったよ(笑)
でももともと親父が作ったものだから悔しい思いは全然無いですよ。 仮に自分が引き継いだとしても財産を有効に活用していくというタイプじゃないから きっと食いつぶして全部無くしていましたよ。

T:そういう環境で身に付いた金銭感覚や臭覚に近いものがあるんじゃないでしょうか。

M:辛いときに、骨董品をみて「これをやってやろう」とチャンスを感じ、スグ行動するなんて、普通は中々出来ないですよ。

N:元々ツイているんですよね。良い人と知り合って、助けてもらって だからたまたまこういう生活が出来るというのはラッキーというか。

T:冷たいシャワーの時に「今に見てろよ」と思えたのはなぜですか?

N:何を根拠にそう思えたのかなぁ。でも絶対に負けないぞって思ってたあの時の姿は目に浮かびますね。 それから何回も負けてるけどね。(爆笑)
でも自分は未だに金があるわけじゃないし、何も成し遂げたわけじゃないし たまたまこういう生活スタイルで派手で人と違うから目立っているだけで またここが無くなったら元の生活に戻っちゃいますよ。

T:いや~これはモテますよ。

N:今の話は誇張してないからね。むしろ本当はもっとドロドロしていて(笑)


M:様々な経緯の中でたどり着いたビターズだからこそ、独特の良さがあるんだなと感じました。

次回後編では、中本さんの若い頃のお話、現在のアート活動、また今後の展望等についてお伺いします。



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